熊本
「2万人が死んだ一つの事件ではなく、1人が死んだ事件が2万件あったということ」
鳥肌が立った。
一人の人間の命の重さを一瞬で理解した。
誰一人として、一人の命としてみるのではなく、ひとつの事件としてみていたところに
このコトバ。
衝撃でした。
今回の熊本地震もそうです。
ひとつの事件と捉えるのではなく、1人がなくなった事件として捉えるべきだと思います。
僕はニュースでしか熊本の現状を知る術がありませんが、
街がどんな状態で、どんなに辛い思いをしながら生活をしているのか想像はつきます。
なぜなら、僕も東日本の時に被災地側として、同じ苦しみを味わったからです。
その時は、ちょうど高校3年生の時で、大学の入学式を控えていた時期でした。
僕は東京の学校に通っていたのですが、高校を卒上司て実家である茨城に帰ってきていたときでした。
突然、震度5以上の地震に襲われて、家の中はめちゃくちゃになり、
水も電気も使えない環境に立たされました。
このデジタル社会で一週間も電気が使えないというのは辛かったです。
ごはんもおにぎりをもらいに行ったりしました。
今こうして普通の生活ができていることのありがたさや幸せさを実感しました。
大学3年になり、父の仕事の関係で岩手の大槌町に行く機会がありました。
知っている方もいるとは思いますが大槌町は「ひょっこりひょうたん島」があるところです。
震災から3年立って、僕の地元である茨城は当然のことながら、元に戻っていたのですが、
大槌町に来て驚愕しました。
3年たってもまだ普段の生活ができない状態が続いていました。
自分の地元が被災地であったというのが恥ずかしいくらい、なにもなかった。
なにもないというのは、津波で流されてしまっていたということ。
父と仕事をしている方々と一緒に同行させてもらい、町を周りながら当時の状況を説明してもらっていると、震災があった現実に涙が溢れてきました。
津波の高さがわかる建物。
「お父さんはやく帰ってきて」と子供の時で書かれている歩道。
生き延びたのに知人が津波で流されてしまったのを目の前でみて精神が崩れてしまった人たちの話。
火の海だったお寺。
どれもが衝撃でした。
僕たちは命の大切さを。普段の生活ができるありがたみをもっと感じて生きるべきだと思いました。
これとほぼ同じ状況に今、熊本が立たされています。
希望があるかわからない状況で、
少しでも希望の光を灯してあげることが僕たちができることだと思います。
いつも買う飲み物を我慢して募金に使う。
いつも買うタバコを我慢して募金に使う。
少し我慢するだけです。
難しい話ではないです。
たった100円我慢するだけで救える命もあります。
熊本は関東の人たちからしたら遠い場所です。
しかし、同じ日本です。
少しでも早い復興と救える命を願って、
協力お願いいたします。